空っぽな人格か、それとも。

人格、僕の中にそんなものがどんな風に存在しているのかわからずに生きていた。

別に趣味嗜好が無かったわけではないし、今は基本的に創作をしたいという確固たる意志を持って動いている以上、今においては大して意味をなさない思考なんだけれども。

 

振り返って、自分がひどく影響されやすいことを自覚していた。幼少期なんてそんなものかもしれないけれど、しかし現在の人格が一番影響されているのは西尾維新の「戯言シリーズ」の主人公だったわけで。初めて意識的に読んだ作品なんで、思想的に多大な影響を受けたのは否定できない。

 

ただ、それ以前の人格がどのように形成されたのかは正直よくわからない。昔の自分は今より共感性が低かった気がする。目の前にいる人間の考えていることが理解できなかったのだ。

 

そんなことだから、言わずとも察するという日本人特有の思考回路には疑問を呈する他なかった、なんて思うのも今から見た感想でしかないけれど。とにかく言外の意図を読み取れない。今だってそう得意じゃあないし、意味のない雑談は苦手だ。対面したところで話せることなんて持ち合わせちゃあいないから。

 

自分が何をしたいのかがよくわからない。何をすればいいのかがわからない。小学生の頃、学校の課題で家庭学習ノートを作った記憶がある。一日一ページノートを埋めていくというもので、少なくともそれは中学生の頃まで続いたのだけれど、小学生のときは本当に何を書いていいのかがわからなかった。

そしてそれをそのまま言ってしまうと怒られたか呆れられたか、そんな反応をされた気がする。

当時はそんな学習に対して熱心でもなかったし、正直ろくに勉強しなくとも高校には入れるくらいの成績を取り続けていたのでは、わざわざ学習なんてものをする気にはなれなかったのだ。

 

何をすればいいのかわからない。

座学に関して苦手がほとんどなかった小学生に対して勉強しろと言い続ける意味は無いんじゃねえの。

 

当時は漫画とかもあまり読まなかったし、インプットもアウトプットも少なかった。家庭の事情で夜八時に寝させられた(寝なかったけど)こともあって、ものの見事に空っぽな人格が形成されていた。

 

今だったら奇をてらって家庭学習ノートに小説でも書いてやればいいんじゃないかとは思ったけど。

 

 

ともかく昔は学びに対して消極的だったわけで。自分の中の興味関心がどういう方向に向いていたのかいまいち判断できない。

 

絵は描いていたけど、母親にひどく否定されていたのでやらなかったし。(普通子供が興味からやった行動を否定するかな? 別に犯罪だとか事故の危険があったわけでもなしに)まあ高校生のときにまた始めたんだけど。今更文句は言わせない。

 

自分は学校で教わるより自分で興味を持って学んだことにこそ一番の価値があると考える人間だからこそ、他者を容易に否定すべきではないと考える。

 

否定を繰り返せばそれは人格そのものを無価値と断ずることになりかねないのだから。それをされて損をするのは当人だ。自分がそれを知っている。

 

また、僕は「何かを始めるときには必ずそれに適したタイミングがあり、どこかでそれと対峙する瞬間がある」とも考えている。「思い立ったが吉日」とも似ているが、それよりはすこしパッシブかな。

 

だから、始めるタイミングはどこかで見逃していたのだろう。音楽にしても、剣道にしても、そこまで興味を抱かなかったのも、そういう理由からなのだと思う。

興味を持たないと頑張らないは違うけどね。

 

僕が言いたいのは、誰かが興味を持ったなら、それを安易に否定しないことが大切、ということ。それは誰の為にもならないからね。興味を持つということはその個人にとって道は存在するということ。若いときにそれを意識しないと、僕みたいなつまらない人間になるかもしれない。

 

好きなことくらい、抱えていきなきゃあダメさ。その価値観が人格を形成するんだから。